窓から雪が被った山が見える。
紅茶を飲みながら私は言った。
『綺麗だね』
それを隣で聞いていた彼女が紅茶を飲みながらこう言った。
『そう?私は雪をみて綺麗だと思ったことはない』
それはまるで宮本武蔵の如し刀の切れ味でバッサリ私の袈裟を切られた気がした。
私は彼女のこの一言にある種の哲学のようなものを感じた。
美しい美しくない綺麗綺麗じゃない美味しい美味しくないという個人的主観が占める感情表現は個別の感情よりもむしろその人が生きてきた環境やどう生きてきたかという人生の足跡に大きく影響を受けるものだと。
例えば、ハワイのリゾートのめちゃめちゃ綺麗な海に旅行で行ったとしよう。そのめちゃめちゃ綺麗な海に一瞬でメロンパンナのメロメロパンチを食らったかのごとくメロメロになってしまう。でもそれは旅行といういちページを切り取ってくるから感じることができる『綺麗』という感情であり、そこで生活している人はその景色が日常でありそれが普通の景色なのである。そこに住んでいる人は綺麗だと思うことはあるかもしれないが旅行者ほどの振り幅で美しいと思うことはないだろう。それがいいとか悪いとかではなくそういうものだということ、逆を言えば旅行や旅という行為は突き詰めるとある人にとっての日常である場所にお邪魔させてもらっているという行為ということなのかもしれない。住んでいる人と旅でくる人とでは同じ景色でも全く違く見えるのは見た目ではなく見方の問題、景色は景色それにいいも悪いもないただそこにあるだけ。
日常で見る景色と旅で見る景色は違うということを理解することができるならば移住という選択そこでこれから生きていくという選択をどう捉えるのか見えてくる気がするっていうことを彼女のこの一言から垣間見えた。
自分でみたそこにある当たり前の綺麗が決してそこにいる人にとっての綺麗と同意ではない。
日常で見る景色と旅で見る景色は違うということを理解することができるならば移住という選択そこでこれから生きていくという選択をどう捉えるのか見えてくる気がするっていうことを彼女のこの一言から垣間見えた。
自分でみたそこにある当たり前の綺麗が決してそこにいる人にとっての綺麗と同意ではない。
彼女は雪をみて綺麗だと思ったことがない。
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